人間には、各々異なった「個性」というものがある。
顔かたちがはひとりひとり異なり、性格や価値観、仕草や話し方などなど、その中の1点を取れば似ているということもあろうが、それでも同じということはない。 だから、その評価も相対的である。たとえば、あるところでは色白の人がもてはやされ、あるところでは色黒の人がもてはやされる。あるところではスレンダーな人がもてはやされ、あるところでは豊満な人がもてはやされる。事ほど左様に評価が相対的であるならば、「こうあらねばならぬ」などというのは単なる本人の思い込みに過ぎないのであって、「そうでない」からといって悲観することもない。そうであるからこそ、何より大切なことは、誰でもこれらすべての点において魅力となりうるということだろう(その逆もまた然りである)。 そんな「個性」だから、大切にしなければならぬ。ところが、日本人は、このバラエティー豊かな個性を軽視して「画一的」ということが好きなのかも知れない。学校の教育然り、少年野球の教え方然り・・・等々である。もちろん、ことを「画一的」に扱うことにも一理はある。しかし、何でもかんでも、どのような場面でも「画一的」であらねばならぬというのは如何なものか。 たとえば、スカッシュのフォアハンドの打ち方はこうであらねばならぬとコーチは教える。フォアハンド・ストロークでは左足を踏み込んで打つのだと習う。左足を踏み込めば左肩は開きにくく、コントロールは良くなるし、効率よくラケット面でボールに力を伝えられる。打った後に出した左足を戻すだけで、ティー(コート中央)に素早く戻れて次の準備ができる。たしかに、効率的だ。だが、待てよ。人はそれぞれ脚の長さも違えば、手の長さも違う。股関節の柔らかさも違えば、腕力や脚力、リズムの取り方だって違う。すべてが違う中で、「左足は踏み出すべし」というのが常に理に適っているのだろうか。 決して、そのようなことはあるまい。論より証拠に、スカッシュにおいては、かつて世界ランク1,2位を争っていたカナダの選手は右足を踏み出してストレートを打っていた。かのイチロー選手の「振り子打法」だってそうだ。アルマジロが熱心に少年野球をやっていた当時にあんな打ち方をしていたら怒られ矯正されていたことだろう。 どのような学問でもそうだが、「基本」を形作る「理論」などというものは、あくまでも最大公約数的な「理」であって、すべてのケースにあてはまる理論など、残念ながらこの世には存在していない。であるならば、この「基本」からスタートするにしても、自分がもっとも良く、あるいは、効率的に良く打てる打ち方をいろいろと試して発見することが肝要である。そして、発見できたその打ち方こそ、ひとりひとりの、そして、最も大切にすべき、「個性」なのである。 「基本」ばかりを押し付けるのではなく、ひとりひとりの「個性」探しを上手に手助けできるコーチが、良いコーチなのである。
by hayakawa-houmu
| 2010-10-04 05:46
| 日々雑感
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